海に飛び込んだことが、ない。
毎年、夏の終わりが近づくたびに、これを思う。
-----------------
小学校のときから、プールの授業が嫌いだった。プールの底に足が届かなかったからだ。
僕は早生まれということもあり、周囲に比べて発育がやや遅かった。小学生低学年だった当時、身長が小さかった僕にとって、プールは闇のように深かった。いや、闇そのものだった。忌むべき存在だった。避けるべき存在だった。だから避けていた。
月日が経っても、プールの授業が嫌いだった。理由は簡単で、カナヅチだったからだ。
何事も鍛錬は大事だ。水泳を忌み嫌っては、その鍛錬を避けていた僕がカナヅチとなることは、至極当然だった。やがて身長が伸びたころ、プールが深いから泳ぐのが怖い、なんて小学生低学年のような言い訳は通用しなくなってきた。大きくなった身長と裏腹に、自尊心は小さくなっていった。小学生高学年だった当時、身長が大きくなった僕にとっても、プールは闇のように深かった。いや、闇そのものだった。
いつしか、プールを避けて生きてきた。海水浴場を避けて生きてきた。
怖かった。溺れることも、溺れて他人に迷惑をかけることも、泳げない自分を晒すことも。
僕は、海辺の町で生まれ育った。日本海が良く見える街だった。日本海に沈む夕日が良く見える街だった。
海に沈む夕日は、画になる。とてもきれいで、胸を打つ。そしてなぜか、かなしい。海に沈む夕日がかなしいなんて誰が言い始めたのか。「きれいな風景だ」というところで終わればいいのに。多分そんなことを言い出す奴なんて、海を避けている僕みたいなやつなんだろう。忌み嫌う対象である海が、風景の主役としてあることにばつの悪さでも感じるのだろうか。実に惨めだ。
-----------------
気が付いた時から、夏の風物詩は海やプールから、専らビールになってしまった。夏の温度も湿度も嫌いだが、それもこれも、一日の終わりにビールを美味しく飲むための布石に過ぎないと思えば、不思議と耐えられてしまう。目の前に吊るされた人参を追う馬のような、刹那的な執念だ。しかし、ビールが美味しいからこそこの自転車操業が成り立っている。ビールは年中美味しいが、夏の蒸し暑い日に流し込むように飲むビールの美味しさは、格別だ。
流し込むように飲む。そんなことをしていると、翌日ひどく具合が悪くなる。二日酔いはもちろんだが、冷えたビールのせいか胃腸の調子を悪くすることが多い。なので、翌日はズキズキ痛む頭を抱えながらトイレに籠ることになる。実に哀れだが、これも夏の風物詩と思えば、乙かもしれない。ああ、なんて思い込みの妙。
うんちをすると、入水の際に跳ねた水がお尻にあたる。水のヒヤッとした感覚が、二日酔いでもやもやした頭の中を一瞬だけ霧払いする。しかし、その効果は一瞬で、また僕はトイレで一人モヤモヤに包まれてしまう。
いつしか、プールを避けて生きてきた。海水浴場を避けて生きてきた。
そんなことを思っていた僕だった。気づけば、そこにトイレも加わっていた。トイレも避けて生きていきたい。そんな人生だった。
海に沈む夕日と対比して、水に流されるうんちなんて、とても画にならない。汚いし、具合が悪い。そして無論、かなしい。水に流されるうんちがかなしいなんて、わざわざ言わなくてもいいことだ。「汚いし、具合が悪い」で十分なのに。多分そんなことを言い出す奴なんて、トイレに籠っている僕みたいなやつなんだろう。僕と、僕が一生懸命ひねり出したうんちが重なって見える。シンパシーなんか感じちゃっている。実に惨めだ。
-----------------
しかし、うんちよ。
お前は僕とは違う。
お前は勢いよく入水する。
お前は水を恐れない。
お前は、勇敢だ。
お前の入水で飛び跳ねた水滴が、僕のお尻にあたる。
その薄気味悪い冷たさは、僕に小学校時代の嫌な記憶を思い出させる。ああ、僕もお前のように海に飛び込めたら、どれだけ気持ちが良いだろうか。うんちへの羨望だろうか嫉妬だろうか、僕はウォシュレットで、その気持ちと一緒にお前を洗い流す。
ボットントイレがある。いままで、ボットントイレなんて臭くて汚くて嫌いだったけど、今なら少し好きになれるかもしれない。
お前なんて、入水なんかしないでさ、同類の屍の上で屍になればいいんだよ…
そんなことを思ったところで自己矛盾に気付く。屍であれば水を恐れる恐れない以前に、そもそもの感情がないはずだ。僕のお尻から投げ出された屍に羨望や嫉妬を抱いていたなんて滑稽すぎる。ああ、うんちよ、すまなかった。お前は生きているんだったな。お前は勇敢な奴だった。
うんちは生きている。
そうなると、ボットントイレは同類と同類を巡り合わせる、出会いの場である。人間でいうところのタップルだ。いや、うんちだったらタッブリュかな、などとつまらないことを考える。うんちよ、お前は海だけでなく人ごみへも飛び込めるのか。いやいや、人見知りな僕がますます惨めになるだけだ。考えるのをやめよう。
水洗トイレは海を、ボットントイレは出会いを想起させる。うんちよ。お前はすごい奴だったんだな。いま、僕はすごく惨めだ。
ああ、水がなくてうんちの貯まらない、そんなトイレがあったらいいのに。
誰かがうんちを遠くに運んで行ってくれればいいのに。
ああ。
うんちベルトコンベアだ。
ははは、うんちよ。
お前は実に哀れだ。
海に行くこともできず、出会いもなく。
敷かれたレールの上で生きていくことしかできない。
どこに繋がっているかわからないベルトコンベア。
行き先も選べない。生き方も選べない。
そんなうんちに同情しながら、我が身を振り返る。
海に行くこともできず、出会いもなく。
敷かれたレールの上で生きていくことしかできない。
うんちは、僕自身なのかもしれない。
いや、僕がうんちなのかもしれない。
ああ、うんちベルトコンベアよ。どうせなら僕も一緒に連れて行ってくれないか。
どこでもいいから、とにかく遠くへ。
最後の目的地は、できれば海がいいかな。ちょうど、美味しい海鮮丼が食べたかったんだ。お腹いっぱい食べたら、うんちもこんもり出せるかな。そのときには、沈む夕日を見てもかなしいなんて思わないかな。
今年も、僕は海に飛び込まないまま、夏を終える。