「式(2.24)、意味わからないんだけど、教えてくれない?」
僕は、大学4年でセミナーに配属されたのだが、その時に同じ人員になった彼は僕にこんな質問を投げかけてきた。
僕「式(2.24)?」
彼「うん。(僕)は予習早いから、理解していると思って」
僕「あ、そうじゃなくて。式(2.24)がわからないのよ」
彼「え、お前、あそこすんなり理解できたのかよ、すげーなー」
僕「いや、そうじゃなくて…式(2.24)がわからないんだ」
彼「え、お前あそこ理解できなくて、とりあえず飛ばした感じ?」
僕(どうしよう…帰りたい…)
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僕の所属していたセミナーでは、いわゆる「輪読」という指導方法をとっていた。
指定された数学書を複数人で読み進める。
ただし、その数学書には行間があり、疑問が生じる。
その疑問を、セミナーのメンバー同士で教えあいながら解決する。
僕の指導教官は、常々
「数学の研究は、『他者に理解されてようやく研究になりうる』んですよ」
と口癖がごとく、おっしゃっていた。
そういった先生の指導方法として、この「輪読」という手法はすごく納得がいくものだった。
「輪読」では大きく2つの力が養われると僕は考えている:
僕は結構1を重んじて生きるようになったのだが、それは冒頭の式(2.24)のエピソードが大きい。
そもそも、セミナーを始めたての頃、僕は輪読というスタイルに対して
「ほーん、難しい本読むんやなあ、そりゃみんなで協力しますわ」
程度の認識だった(イージー)。
そして、セミナーが始まるまで、人と疑問を共有する機会に乏しかった。
だから、数学のことについて他者と議論する機会に乏しかった。
その中で、冒頭の式(2.24)の話題を振られ、僕は疑問の言語化について考えさせられたのである。
セミナーのメンバー同士、というのは、基本同じ学年の人員がそろっていて、基本同じレベルで議論ができる人間が揃っている、と僕は思っていた。
だが、現実はそうではなかった。
傲慢だが、僕はできる方だった。
セミナーのメンバーが僕に質問をしてくる日々が続いた。
だが、僕は、質問に答えられなかった。
それは、冒頭のようなコミュニケーションが続いたからだ。
僕は数学書を読むうえで式番号を重んじていなかった。
彼は数学書を読むうえで式番号を重んじていた。
たったそれだけだろう。
しかし、それだけで、冒頭のように、コミュニケーションは成立しなくなるのである。
それはなぜか。
それは、式(2.24)が僕に伝わっておらず、それと同時に「式(2.24)が伝わっていませんよ」ということが相手に伝わっていないからである。
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よく、コミュニケーションは「会話のキャッチボール」と聞く。
だが、この比喩表現について、
- そもそも、「会話のキャッチボール」ってなんやねん
といった切り口で突っかかる人間は少ないように思う。
僕も、セミナーをやるまで「会話のキャッチボール」という言葉に疑問は呈さなかった。
しかし、世間一般のコミュニケーション---「会話のキャッチボール」では、
- 悪送球でもボール投げたんだから捕ってよね(投げた側の悪手を責める)
- そのボール捕れないのはお前が悪くね?(捕る側の悪手に寛容でない)
といったことが散見しているように、僕は考えている。
それは是なのだろうか。
言葉が複数人で交互にやり取りされている絵面であれば、冒頭の「式(2.24)」談義も会話のキャッチボールと言える。
でも、多分、あれは会話のキャッチボールではないのだと思う。
基本、我々は自分の理解している世界観でのみ疑問を紡ぐことができる。
そして、それを発信するだけだと、変な誤解を生むことが多い。
だから、発信の前には
- これを言ったら相手はどう思うんだろう
- この表現だとこういう誤解を生むかもしれない
- 自分の解釈と既知の事実は明確に線引きをした方がよい
といったワンクッションを挟むのである。
このワンクッションがすごく大事である。
このワンクッションがない場合、相手に合わせず自分の疑問・主張・願望を垂れ流すエゴイストマシーンと化す。
このワンクッションは誤解を緩和する役割を持っている。
逆に言うと、このワンクッションを誤ると、相手に伝えたいことが伝わらないのである。
そして、この場合のコミュニケーションの不通は、「ワンクッションを誤った発信側」に非があると思う。
だからこそ僕は、冒頭の会話について
それは、式(2.24)が僕に伝わっておらず、それと同時に「式(2.24)が伝わっていませんよ」ということが相手に伝わっていないからである。
と、双方の非を思うわけである。
例えば、の話をしよう。
初対面の人と話すときに自己紹介。
これをしないだけで、お互いの意図や言葉の意味が見えなかったりする。
自己紹介で重い事情を深々と…とまでは言わないが、言ってはいない以上自分が勝手に常識と思う話題は振らない方が、いわゆる「地雷」を踏まないうえでは重要だろう。
(僕は、向こうの家庭事情が見えるまで「両親」の話題は出さないようにしている)
ただ、「地雷」を踏まないようにが行き過ぎると話題が広まらないので、それは「僕はこれが趣味で…」といったポジティブな自己紹介で話題を広げるより他がないと思う。
こういうこと考えるから人見知りなんだよ
また、学会の時のイントロダクションもよい例だ。
講演の上手い人ほど使う記号の定義などはわかりやすいものを使用している印象がある。
これが転じて、「講演のアブストラクトをがっちり書く」「論文で使用する記号をしっかり考える」といったところですよね。知識の殴り合いみたいなセミナーばっかりやってると、この感覚が死ぬ気がします。
— 三角関数ちゃそ (@sarugami_univ) 2021年3月9日
講演は、聴衆に「ふーん、なるほどね」感を出すのが大事だと思っているので、この記号定義という名の「プロトコル」が大切だと思う。
例の最後に、悪い例を挙げると、暴言だ。
どんなに相手がわからず屋であっても、議論相手を侮蔑・中傷することはあってはならない。
それは、理論という「プロトコル」を自ら捨て、感情という「プロトコル」に乗り換えることを意味するから。
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最近、Twitterで「議論」をよく見る。
が、どれもこれも、話としては平行線、お互いの議論の焦点と言った「プロトコル」が確立される以前の「議論もどき」に見える。
Twitterで行われる議論には、
- 高々140字しか書けないので、厳密な主張が難しい
- 主張のある点だけがRTで拡散されてしまう
- お互いのプライベートな事情が見えない
といった、「プロトコル」の形成しづらい性質が多いと思うが、それを埋めるところから議論を開始しないと、やれ超算数だの、やれビジネス数学だの、何も解決しないと思うわ。
数学に限らず、議論の生産性をあげるには「お互いの使用する言葉を定義する」という準備が大切で、(僕から見える)SNSは、それが出来る人が少なすぎる気がしています(個人の解釈)
— 三角関数ちゃそ (@sarugami_univ) 2021年3月9日
Twitter上での批判は攻撃なりうるし、知見はマウントになりうる。
が、それもこれも、予めお互いのプロトコルを擦り合わせておけば、多少は緩和すると思う。
それができないなら、Twitterを経由して議論をしてもそれは議論もどきにしかなりえないのでやるだけ無駄だと思う。
上述の「Twitterの『プロトコル』の形成しづらい性質」のない、対面でのディスカッションをするより他がないと思う。
恩師の言葉を借りるならば、
「真理は、『他者に理解されてようやく真理になりうる』んですよ」
と、僕は言いたい。
そして、相手の立場、環境といった「プロトコル」を理解・尊重・矯正しないまま
「君、本当に中学校卒業したんですか」
「君みたいな人間は社会に出ない方がいいですよ」
「こんなのもわからないなんて、君は馬鹿なんですね」
といった侮蔑を言う人間は、仮にどれだけ数学ができたとしても、僕は尊敬できない。それは自らプロトコルを破壊する行為であり、自らを暴君とするアピールに過ぎないからだ。
そのうえで過度な「厳密主義」は不要である。
無知に対して排他的すぎる。
まあ、長々と書いたが。
数学をやっている、のに、議論が、できない人間を通して、数学が嫌われるのは、数学の1ファンとしては耐えられない。
伝えていこうぜ、数学を…
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話は変わるが、僕は幼い時に引っ越しをして、引越し先の田舎で生まれ育った。
僕はいわゆる「標準語」と呼ばれるイントネーションなのだが、僕の引っ越し先ではそれがマイノリティ、つまり「プロトコル」としての意味は弱いものだった。
僕が「フツー」だと思って言った言葉がイントネーションの意味で変に悪目立ちをすることもあったし、今思うと明らかな方言もその土地ではプロトコルの役割を持っていた。
マジョリティは強いし、マイノリティは弱い。
自分の常識というものは、自分の環境とは切っても切れない関係だと思う。
僕はこういった世の慣習を肌で感じて、時に迎合しつつ時に戦いながら育ってきた。
個と個の言い争いで負けるよりも、個と文化の言い争いで負ける方が、自分の無力さは大きい。
自分ではどうしようもない力で、自分を否定された気になる。
そういった身から、個人の立場を尊重して、みんなでプロトコルをつくることが重要と思っている。のかもしれない。でも、方言はいいぞ。
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最後に、
冒頭の式(2.24)だが、
僕は式(2.24)の具体を一言も述べていないのに、冒頭のエピソードが頭をよぎった方は、僕の術中だから詐欺にあわないように気を付けてください。