本記事はあくまで個人の見解です。
健康であれば学校に通うべきです。
前回の投稿。
課題研究で数学班に配属された僕はいよいよ数学に触れる機会を得た。
が!
上記の記事をたどってもらえるとわかると思うのだが、正直言って僕は数学を始めたモチベーションは消極法的なもので、あまり数学に対して「時間を割いて勉強しよう」といった気持ちはなかった。
あと、中学高校とそれなりに成績が良かった自分が、「わからない」で悩むことがないと高をくくっていた。正直、自分は学問に対して謙虚ではなかった。
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2年生の春に三者面談があった。
将来の夢や志望校を聞かれる機会である。
以下、このシリーズでは第三者は僕を「(僕)」と呼ぶこととする。
担任「(僕)は、行きたい大学は?」
僕「第一志望は、東京学芸大学ですかね…」
当時僕は教員を志していた。
東京学芸大学は教員系の大学のトップと伺っていたため、僕はそこを志望校に掲げていた。
とりあえずその道のトップを目指す。わかりやすい解答だろう。
仮に受験に失敗しても、少なくとも学芸大のレベルを目指していれば、東北の公立大学にはある程度受かるはず。そういった保険もあった。
親「あー、でも関東には進学させないので」
僕「!??!!!??」
僕は衝撃的だった。
僕は高校時代、県TOPへの進学を断念させられて今の高校に通っていた。
そのため、僕は「まあ、高校は自由に選ばせてもらえなくても、大学は自由に選べるやろ。関東に進学するのは同じ運命なんや。そりゃ高校時代は節約したいわな。わはは。」と思っていた。
現実はそうではなかった。
僕は高校も行きたいところを我慢して今の学校に通っている側面が大きかったが、まさか大学以降もそうなるとは思ってはいなかった。
三者面談は続く。
親「うちの子には、地元の○○大学に行ってほしくて」
先生「○○大学ですか。(僕)くんならいけると思います」
おいおい。待て待て。
つーか、そこ、さすがに名前は伏せるけど、行けるに決まってんだろ。なめんなよ。
というか。
三者面談だろ。
三者だろ。
僕の意見はどうした。
ああ、でも、三者のうち二者が話に混ざってるしなあ。
民主主義の国的にはありかもしれない。
うーん。
両親は、僕に経済的な苦痛を見せることはなかった。
何だったら、兄や姉は私学に入学したり、遠方の学校に入寮したりもしていた。
だからこそ、僕は高校の選択の際に、県TOP校を志願した際に断られたショックもあったし、このように大学進学さえも不自由を感じることになるとは思っていなかった。
(これはあくまで家庭内スケールの不満である。)
それゆえ、この「関東の大学に進学したいですイエーイ!!」という意見に出たリジェクトは、ショックだった。
で、なぜ、関東ないしトップ校に進学したい気持ちがあったかというと。
僕はどこかで闘争を求めていた。*1
自分は、馬鹿でありたかった。
自分の持っていないアイディアや知識で、ボコボコにされたかった。
何を言っているんだ、という話だが、中学時代成り上がりで成績上位者になった僕は、つくられた「成績のいい真面目な僕」 と「本来の馬鹿な僕」の乖離に悩んでいた。
例えばの話になるが、小学校の時は、「うんち!」って言ってもみんな笑ってたのに、中学くらいから「うんち!」と言うと「君みたいな立場の人間がそんな言葉を言うのではない」ととがめられる、そんなエピソードが多々あった。
僕は不自由を感じていた。
だからこそ、「うんち!」と言える側になりたかった。
なるべく、狭い田舎の感性にとがめられず、ありのままの「うんち!」を言いたかった。
...文字通り「くそ」みたいな脱線脱糞をしたが、僕はこのあたりから、他己評価と自己評価の乖離を強く意識するようになってしまった。
うーむ。
「ジョハリの窓」という考え方がある。
人間には
- 「自分」の考える、見える「自分」
- 「他者」の考える、見える「自分」
- 「自分」の考える、見えない「自分」
- 「他者」の考えない、見えない「自分」
の4つの見方がある、というものだ。
僕の場合だと、「自分は本当は馬鹿なんやで~」という自己分析と、「でも、周囲としては真面目にふるまってほしいんだろうなあ」という推測があったため、
- 「自分」の考える、見える「自分」→馬鹿
- 「他者」の考える、見える「自分」→秀才
- 「他者」の考える、見えない「自分」→秀才
- 「他者」の考える、見えない「自分」→???
みたいな感じだったと思う(もちろん、親しい友人は僕の馬鹿なところも評価してくれたのだが、多くはこうだろう)。
こういった形で窓を分けると、自分の思う自分が徐々に周囲に理解されないように思うわけであり、これは孤独感や孤立感につながるわけである。
もっと言うと、この状態の窓では、第三者の称賛や評価も、屈折して吸収してしまう。
だから、自己肯定が育まれない。*2
こういう状況下では、コミュニティが大きく変わらない以上は、常に孤独である。
で、田舎ではコミュニティが大きく変わることはない。
僕はそこの孤独に耐えられなかった。
徐々に、授業中にまともな回答をしても、ふざけたボケを言っても、どっちにも属せない自分を感じて、ストレスと思うようになっていた。
加えて、僕はどこかで
「このまま今の生活を続けていたら、自分がもっと強い第三者に知的暴力を受けることがないまま一生が終わる」
と思っていた。
もう二度と、相対的にさえも、自分が馬鹿になれないような気がしたのだ。
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そして、ある日、高校に行けなくなっていたのである。
受験の目標が第三者的になくなったこと、自身のジョハリの窓に気づいたことが大きなストレスになってしまったと思う。
体は動くし、会話もできる。
ただ、いざ授業を受けようとすると、緊張してすべてが固まるのである。
あるとき、家で数学の課題の予習をしているときに、ふとゲロを吐いてしまった。
が、それは一過性のものではなく、強い強迫性障害として体に残った。
自分が信じられないというのは、心身ともに負荷である。
よく、「あれ?家のカギ閉めたっけ?」のそれのノリで、「ちゃんとゲロを吐き切っていない」と思って、常に吐き気が付きまとった。
これの延長戦?で、トイレの後に「ちゃんと尿を出し切ったか?」となり、ない尿意が動くようになっていた。強迫性の膀胱炎だ。
僕の体はその時まともではなくて、親に病院に連れて行ってもらい、その診断結果を受けしばらく授業を受けず保健室に通うこととした。
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しばらく高校を休むことが決まったが、出席日数次第では留年もありえたので、いけるときは保健室に駆け込む形で無理して登校した。
休みたては、結構無理して保健室まで行っていた。
強迫性の膀胱炎が特にひどくて、トイレに行きたいときにトイレに行けない状態がダメだったため、車での送迎ができなかった。
そのため、僕は普段通り家から高校まで、途中コンビニのトイレに寄りながら通学していた(むろん、通学中のコンビニは寄り道ともとらえられるほどの田舎だったので、寄り道に抵抗感はあったが...)。
そういった状態で学校に行っていたので、保健室で一人という状況は「最悪授業とかどうでもいいから、トイレなんていつでも行っていいんやで」という状況であり、すごくありがたかった。
究極的には
「休みたいときに休んでもいい」
という選択肢を行使できたことが大きかったと思う。
休んでいる時期というのは、何をしてもいい。
僕は、結構、この強迫性膀胱炎?みたいなのが続いて苦労したが、「別にみんな常に頑張っているんじゃないんやで、トイレなんていつでも行きな」がわかったのは収穫だった。
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まあ、でも。
結局、上述の体調不良は2か月くらい続いて。
いくら先生方が「焦らずゆっくり、自分のペースでやってほしい」とおっしゃったところで、一応進学校にいる以上、授業を受けられないのは不安材料である。
で。
2週間くらい休んだあたりから、徐々に保健室で独学で勉強を始めた。
と言っても、体調不良で活動時間は他人よりも少ない中で、複数科目をコツコツ勉強できる気力はなかった。志望大学のこともあり、勉強のモチベーションも当時はなかった。
まずは、当時好きだった、社会から勉強を始めてみた。
でも、無理だった。
当時僕がとっていた科目は地理だった。
例えば、「大きな河川の近くに文明が栄える」といったように、地理は文化に大きな影響を及ぼすのだが、僕は、それを一人で勉強しながら気づくことはなかった。
中学時代、授業を受けて、授業をなぞって成績を伸ばした身として、そのレールがないのはもろかった。理解に順序があることや、その順序をなぞることの大切さを僕は知らなかった。
自分一人でやった地理は、ただ、「この地域はこういう気候で、これが多く生産されていて、...」ということを順々にただなぞるだけで、楽しくはなかった。
暗記になっていたのだ。しかも、一人で。何が重要事項かわからないまま。
で。
「地理つまんね~」というのを一週間くらいやった後、次は英語に手を出した。
…当然!!
無理だった。
そもそも、一人で高校英語をやると、自分の和訳・英訳が正しいかどうかを自分で判断する必要がある。そんなの無理、というか、伸びない。第三者からの刺激がない。
つまらなかった。
そんな感じで保健室登校を2週間くらい続けて、「なんか勉強はしないと不安だけど、どの勉強も一人でやるのはつまらん!」といったメンタリティーになっていた。
で、その状態から、ずっと保健室でゴロゴロしながら、二日くらい経った。
このあたりで、一人で何かを勉強するのは諦めていた。
体調の回復だけを待つだけのロスタイムだった。
保健室で過ごすのが2週間ほど経っていて、休みという大義名分でやりたいこともやりつくしていた。
でも体調が回復しないから、本当に、ロスタイムみたいな状態だった。
この保健室登校期間、いろんな先生が僕のもとに対談しに来た。
「体調は良くなったか?」
「クラスメイトが心配してるぞ」
「いつでも戻ってきていいぞ」
いろんなことを言われた。
僕は、こじれているように見えて実は結構情にアツい人間だったので、そう言われると「は?きれいごとじゃん」と思うより以上に申し訳なさが勝って、そのマイナスな気持ちが体調に現れて、もっと嫌だった。
そんななかで。
この時期に、僕の担任の先生が、よく僕のもとに来た。
担任の、数学の先生だ。
下記の課題研究の担当の先生である。
究極的なオチとしては、当時文系の僕にマクローリン展開を導く先生である。
先生「sin1°って、どのくらいだと思う?」
僕「いや、小さい気はしますけど...0.01くらいですかね?」
先生「...君は、時間がある。みんなは休む時間だと思っているかもしれないが、何かに没頭する時間でもある。『休む』に没頭してもいいが。
君は受験の目標を失ったが、新しい目標を作る時間の使い方もあるんじゃないか、と俺は思う。
東北地方で一番勉強ができるのは東北大学だ、と俺は思う。
教育系の大学じゃなくても、教員免許はとれるし、これを目指すのも悪くないんじゃないのか。
君の学力だとギリギリだと思うが、いい目標になると思う」
僕「でも、最近、一人で勉強してて、楽しくないんですよね。一人で勉強しているのがつまらない、というか、そもそもの勉強が面白くないんじゃないかって。みんなでやる勉強も、みんなでやってるだけでつまらないのでは?って。最近よく思うんです。そんな人間が、教師にはなれないんじゃないかな、って。そのモチベーションで、東北大学は受からない気がします。」
先生「…あまり言いたくないが、先生は『大人』だ。高校生に比べて、ある程度いろんなことは知っている。ズルいんだよ。ズルだ。ズル。」
僕の担任の先生は、変にルールを振りかざし、そのくせ正論を言うので、生徒からの評判は良くなかった。でも。
先生「フツーに考えてみろ。
大学で4年勉強して、そのうえ数年働いて、先生だぞ。それが正しいかさておきな。いろんなこと知ってるんだ。」
でも。僕はそこに憧れていた。
先生「ズルいんだよ。
…しかしなあ。だからこそ、教えられることがあるし、学ぶこともある。」
先生の目は、いつにもなく真剣だった。
先生「一回勉強をするとな、大体のことはわかった気になるんだ。でも、俺は数学を理解できたことはないよ。自分の中で初めてだったんだ、勉強するほど自分の身の程を知るというか。」
思えば、これが僕が数学徒になりたいと思った瞬間なので、先生のことは、いい意味で恨んでいる。
先生「だから、君には一度、『sin1°がどのくらいか』、真剣に考えてほしい。公式に代入しました、ではなく、君の感性で。君の言葉で説明してほしい。
その結果、君の、変な悩みは全部、飛ぶと思う。仮に吹き飛ばなかったら、東北大学に入れる。そしてそこで、結局飛ぶ。」
僕は、数学の教科書を開く。
僕の保健室は、いい意味で、ここから1か月続く。